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焼け残った記憶を拾い、花を手向け弔う。その過程で生まれでたある一つの結論、ある一つの完成のかたちが、絵画だったり、物語だったりする。2017.12.18 マツウラミオ

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夏夜の散歩

夜の散歩を好むのは、通行人が少ないことや日焼けを気にしなくてよいことなど諸々あるのだが、昼間とは異なる夜独特の雰囲気が好きだからというのが大きい。

自然光が失せた風景は、人も建物も木も、あらゆるものが闇に沈み———立体感や物質感を損なって———かと思えば街灯や住宅の窓から漏れた光に照らし出されて思いがけず露わになった物体との遭遇、視界の心許なさゆえに鋭敏になるその他の知覚がもたらす「実感」が心地よかったりする。頭であれこれ考えることから離れ、触れるもの、聞こえるもの、漂ってくる匂いに集中していると、獣になったような気持ちになる。なにもいないところを、なにかいるかもしれないと用心して、それが杞憂に終わると安堵する。そういう無駄も含めて、心愉しい。

上京して最初に住んだアパートは大学の最寄り駅から徒歩五分ほどの所にあった。十数年ほど前から駅を中心に栄えはじめたらしく(物件見学の時に不動産屋が言っていた)、駅ビルには百貨店を意識した食料品店、ファッション雑貨店、レストランフロアがあり、その対面には大型のスーパーがあった。昼夜問わず、自宅までの道のりにもほどほどの喧噪があり、店の照明や電飾で夜道といえど常に明るい。だがその駅を挟んで反対側の、駅から少し離れたアパートに引っ越すと、辺りは戸建てや集合住宅ばかりだのにどういうわけか人の往来が少なく、夜にはさらにひとけが絶えてしまうので、灯りのついた家からわずかに漏れる生活音さえ目立った。場所が少し変わるだけでこうも印象が変わるものかと、その頃から習慣になっていた夜の散歩の途中に思った。

これまで四度引越しをしているが、もっとも印象深い散歩道は三度目の、長津田の夜道である。

こどもの国線と田園都市線が通う長津田駅周辺はいわゆるベッドタウンで、閑静な住宅街である。生活に最低限必要なものは駅前でなんとか手に入るが、洒落たものやニッチなものはたいてい手に入らないし、行きつけの飲食店もなく(駅のすぐ近くの珈琲喫茶は居心地がよかったが)、大体の用事は電車で出かけた先か、ネットで済ませるかの二択になるので、自ずと無駄遣いが減り、生活は質素になった。アパートは駅から遠く、歩いて二十分近くかかる道のりはほぼ直線路で、この道沿いにはマルエツ、総合病院、公園があり、駅から離れるにしたがって八百屋や花屋や散髪屋など自営業の小さな店舗が並ぶ。遠目には団地の群が見えた。下りの緩やかな勾配は急な傾斜に差し掛かるポイントがあり、この辺りから歩道の幅が恐ろしく狭く、車の往来が激しいわりにガードレールがないので、かなり危なっかしい。それからほどなくしてこどもの国線の高架下を抜けると、正面を横切る恩田川が見えてくる。

川を境に、景色は突如として畑と田園の風景に切り変わり、歩いてきた直線路が山の裾に突き当たるまで、左右は土と草木の色ばかりである。川を越えただけでまるで別の街に来たかのようである。山の裾に沿うようにして点々と並ぶ住居のの一帯に、当時私が暮らしたアパートはあった。

話が少し逸れるが、辺りが自然に囲まれているゆえ、四季によって景色の印象が随分変わる。例えば冬は乾いた土と枯草の匂いを砂埃もろとも冷たい風が巻き上げて吹き付け、枝木は骨のように身を縮こめ、あらゆるものが芯から凍ついて見えるのだが、春が来るとそれらは一様に息を吹き返したかのように、水気を含んだ匂いを漂わせ、温かな陽光の下、どこを見渡して何かしらの生命の蠢きを感じられるようになる。

春の日中の恩田川は、親鴨が綿毛の塊と見紛うような生まれたばかりの仔鴨を十数羽も連ね、歩行と水泳の練習を兼ねてか、眩い光に満ちた浅瀬を浮いたり歩いたりする。川沿いの桜は風に舞い、輝くように白く翻る花びらは惜しげもなく川一面に散ってゆく。「変化」が目に見える形ではっきりと捉えられるゆえに、「時間」を意識させられることが多々あり、その度鼓舞させらることもあれば、激しい焦燥を味わうこともあったのだが、さざめいた胸が静かに凪ぐことの方が多かった。生活するには多少勝手が悪くとも、風景の移ろいやその差異を日々感じながら暮らすのは悪くなかった。

散歩の話に戻ると、川沿いを恩田駅方面に歩くのがいつものコースで、特に夏の夜の散歩は鮮烈に記憶に残っている。季節柄、どこへ行っても昼間の灼熱の日差しの名残でか夜でも空気が熱っぽいものだが、川や田の近くに限っては涼しかった。恩田川の両脇には、人が三人並べるほどの細い道があり、駅側は住宅の壁が、山側(つまり自宅側)は延々と田畑が続いている。いずれ側にも街灯がぽつりぽつり間隔を空けて立っているが、日が落ちると辺りはほとんど真っ暗である。道中、風を切って走る自転車が傍らを抜けて行ったり、ランニングをする人、犬を連れた人、自分と同じくぶらぶらと歩いている人を、追い越したり、追い抜かれたりする。対向に人の気配が感じられた時は、それとなく取り出した携帯電話の画面の光で、ここにいますよ、ということだけを知らせる。

水辺や草叢のある道には女郎蜘蛛や黄金蜘蛛が無数に巣を張り巡らせており、その巣を恐る恐るくぐり抜けたり、歩いているとどこからか風に乗って来た糸が腕や頰や首筋にまとわりついたりする。蜘蛛に限らず、泥が散ったり虫が顔の近くを飛んだり、生理的な不快を被ることは多々あるわけだが、むしろ気持ちが沈んでいる時に遭遇するこうしたアクシデントはいい薬で、空調の効いた部屋で虚ろに過ごすよりはずっと気分がよかった。夏は特に、気温や湿度がもたらす身体的な刺激———火照り、発汗、風のぬるさと重さ———が強く、また、人以外のものとの不図した接触の多い。私が夏を好む理由はそういうところにあった。

場所によっては水位に高低差のある恩田川は、近づくと、水が落下する音、岩に重くぶつかって弾ける音、細かな飛沫が散る音、低く唸るような音が、体を内側から振動させるように響く。柵越しに川を覗き込むと、コンクリートで覆われた斜面の2メートルほど下を流れる水は、夜は塗れたように黒く、濃縮した闇そのもののようで、水底(みなぞこ)は吸い込まれそうな漆黒である。昼間には把握できた、どこが浅くてどこが深いのかといった物理的な距離感は失われている。絶えず揺らめく水面は、わずかに落ちた街灯の光と住宅の光とを一緒くたにして不規則に反射している。その光が鋭くも柔らかくも見えるのは心境によりけりで、じっと見つめていると、水の轟きや光の明滅に鼓動と脈が呼応するかのような感覚がする。

目で確かめられる情報は随分と削ぎ落とされているのに、感受するものが多いのが、夏の夜の散歩である。特にここでの散歩は私にとって特別であった。草や淡水の混じった少し生臭い匂いがしっとりとした大気に混じって鼻をかすめる時、暗がりに沈んだ風景の中に、昼間見た青々と茂る葉の色や葉脈の広がり、藻の揺らめきが浮かび上がってくる。息を吸い込むと、そうした命あるものの片鱗が、肺の底に湛えられてゆくようかのようである。水音、虫や蛙の鳴き声が辺りを満たし、そこへ音と光を切り込むように、高架の田園都市線が走り抜けていく。自分も闇に溶け、その一部になったかのような、包まれているような感覚。思考より感覚が優先して、獣になるような感覚。夏の夜の、長津田での散歩は、恩田川沿いをただぶらぶらと歩いて折り返すまでのほんの数十分間のものだが、この時間が好きだったし、今も好きである。またいつか、機会があれば、夏の夜にここを訪れたい。