about

焼け残った記憶を拾い、花を手向け弔う。その過程で生まれでたある一つの結論、ある一つの完成のかたちが、絵画だったり、物語だったりする。2017.12.18 マツウラミオ

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落し物

駅に交差する幅広の歩行者路は、その中央に樹木や草花の鉢が配された緑道で、街歩きの小休憩にちょうどよさそうなベンチがこれらの植樹の傍らにいくつか置かれている。

いつものようにこの路を歩いていると、一番駅寄りのベンチの背凭れ部分の鉄骨に小さな巾着袋が括り付けてあるのを見つけた。

落し物を観察するのに興味があり、無論それが財布などの貴重品であればすぐに交番やら店のサービスカウンターやらに届けるのだが———住宅街の道端のハンカチだとか封を切ったばかりの煙草の箱だとかであれば、一体どういう状況で落としたのだろうかとか、どれくらいの時間が経っているのだろうかとか、どういう風貌の人物が使っていたのだろうかとか、取るに足らない推測や想像を膨らませてみたりするのがちょっとした楽しみだったりする。ところがこの落し物は、そういう遊び心の熱っぽさを即刻吹き冷ましたのだった。

巾着は手作りだった。深紫の生地に白と藤の二色でバレリーナの少女のイラストが刺繍されており、このバレリーナの足元には、ひらがなで“さとう”と大きな白い文字が刺繍されていた。

たとえそれが商品として一般に流通している比較的安価なものであろうとも、持ち主にとって“代えがきくもの”とは限らない。経済的な理由からかもしれないし、緊急性ゆえに失くしては困るものなのかもしれないし、大切な人物から譲り受けたものや旅行の思い出に購入したものゆえかもしれない。そのようなストーリーを、道端に転がっているものすべてが秘めているに違いないのだが、なにより「手作り」であること、そしておそらくは持ち主の名前まで記されたものとの遭遇は、一方的に差し出されたプライベートな情報を受け取らざるをえず、その人の生活圏に唐突に深く踏み入るような感じがして、当初の気まぐれの遊び心は罪悪感に傾いて行った。

昔、実家の裏口を出てすぐのところに女性もののスカーフが落ちていたことがあって、まだ幼かった私は傍らの竪樋(たてどい)に結んで持ち主が現れるのを待った。しかしいくら待てどもそれらしい人は現れず、野晒しのまま雨風に打ちのめされるうちにしだいに薄汚れ、やむなく捨ててしまった記憶がある。

経験上、落とした日から遠ざかるに従って、落としたと思しき場所や時間の記憶が曖昧になり、見つけ出すのが困難になる。図らずしも置き去りにされ、野垂れ死ぬのを待つばかりのその人の断片のようなものを、どうしてやろうという気もないのだが、こういうものに出会ってしまうと、早く持ち主が現れますようにと他人事ながら心の中で唱えつつ、なにかしらの形でこの遭遇を記録にとどめておけないだろうかという思いに駆られ、最近の私はひとまずカメラのシャッターを切ることにしている。