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焼け残った記憶を拾い、花を手向け弔う。その過程で生まれでたある一つの結論、ある一つの完成のかたちが、絵画だったり、物語だったりする。2017.12.18 マツウラミオ

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骨董市にて

興味がなくはないのだけれども、足を踏み入れるほどには及ばないようなことのひとつに骨董品がある。某長寿番組の、依頼主が持ち寄った品物の価格を鑑定士が鑑定するのを、子供の頃から祖母の傍らで大人しく観ていた。価格がいくらになるかよりも、それが本物であったとして語られる時代背景や制作工程に興味があった。

古いものに囲まれて育ったせいか、真新しいものよりも、経年を感じさせるものに親しみを感じやすいところがある。私の実家は戦前から焼け朽ちることなく形を留めてきた木造家屋で、紆余曲折を経ておおよそ百年は持ちこたえている。この家には、いつからあるのかわからないような刀物や尺八、曽祖母から引き継がれた数珠、祖父が収集した文学全集、棚に並んだ日本人形に皿に仏像など、私が誕生する前からその場に留まり続けているものがある。古いものはデザインや質感から明らかに時間の層が異なるのが見て取れ、その妙な感覚をもたらすものたちにはどこか惹かれた。

創作の意欲やアイデアは、排出ばかりしていると蓄えが乏しくなってゆく。このところ排出ばかりの生活で、習慣に従って何かを生み出そうとしても、痩せたアイデアばかりで虚しく、体の裏側から肉を削り取るような不健全な行為に成り下がっていた。作ること、あるいは作ることに考えを巡らせることが癖になっているので、習慣化した創作行為から自分を解放させることは案外難しい。作ることから離れねばと外へ出る理由を求めて時間を持て余していると、たまたま骨董市の記事を見つけて足を運ぶに至った次第である。

その日は快晴で、気分転換には申し分のない陽気であった。年配の人ばかりかと思いきや、この骨董市には若者も多く賑やかである。二百五十店舗もの露店が連なり、出品者は皆手書きの店舗名が書かれたパスを首から下げ、テーブルや地面に広げた敷物に各々の品物を並べている。この骨董市は南西から北東にかけた一直線の通りで開催されており、ひとまず駅の出口から一番近い最南端から一店舗ずつ覗いてみることにした。

ーーーものが並べてあるのを見るのも、好きなことのひとつである。書棚の本、博物館の標本、手芸屋の反物やビーズ、雑貨屋のグラスなど、物としては同じ類だが、色や形状の異なる物が無造作に、あるいは均整を持って並べられた状態を前に、それらの配列から偶発的に生じた関係性や比喩を発見するのが結構楽しいのだ。可能であれば、自分で並べ替えたりしたくなる。

骨董市といえば焼き物やティーカップばかりかと想像していたが、出だしからそうした先入観は取り払われた。掌サイズの木彫りの動物、ルーペ、コンパス、ガラスの小瓶、植物や星のリトグラフ図版、マリアが彫刻されたペーパーナイフ、ドレス、そのほか用途のわからない器具———歩みを進めてゆく先々で、この時代には浮いてしまうような、つい手に取ってみたくなるようなものにそこらで出会うのだった。機能性は現代のものと比較して劣るに違いないが、大量生産のもので支えられた生活のなかで、それらが機能に優って時を超えた美や個性を主張してくるのには面食らった。

小物、家具、食器類、文房具、実験器具、標本、衣類、アクセサリーなど、品物は多種多様である。中には同じような商品を扱った店舗もあるのだが、品物ひとつひとつは出品者が拘り抜いて収集した代物であるゆえ、その集合と、ディスプレイのレイアウトは出品者のセンスを大いに反映しており、各ブースで毛色が異なるのがわかる。アクセサリーの出品は特に多く、普段はピアスくらいしか身につけない性分なのについ見入ってしまう。ふと、好みの指輪がいくつも見つかるブースで足が止まった。

「それはねぇ、イギリス」

それはアメジスト。こっちは、エメラルド。足を止めた品物台の向かい側に腰掛けていた出品者の女性が話しかけてきた。年は七十くらいか、薄化粧で、皺や染みを包み隠そうとしていないこの女性は、静謐な表情も伴って、凛々しさと気品が漂っている。身につけている服やアクセサリーも、一見飾らない装いだのに、どこか強い拘りを感じさせるものがあり、独特である。

こういう時、私はいつも上がってしまい、顔がかっと熱くなって、額から髪の生え際あたりにかけてじんわり汗が浮かんでくる。だが、この人もそうだがほかの出品者もまた、無理やりものを買わせようとする野暮な人間はいなかった。収入源が別にある人や、年を重ねて丸くなった人が多いからかもしれない。綺麗ですね、こっちも可愛い、と、相槌を打ちながら見ていると、天鵞絨の上に据えられたシルバーのブローチに目が止まった。中央の少女の横顔を包むようにして、左右に大きく広げた長く豊かな髪が曲線をつくり、その髪にはいくつもの星が散りばめられている。なんとも可愛らしく、一目で気に入った。手に取ってじっくり眺めていると、出品者は「アール・ヌーヴォー」だという。事実であれば、グスタフ・クリムトやアルフォンス・ミュシャやアントニ・ガウディが生きていた時代のものが掌に乗っていることになる。奇妙な感覚だった。だがいかに魅力的であっても、私には収集癖はなく、ただ物を所有したいという感覚は持ち合わせていない。そのため、自分が持っている服や鞄にそのブローチが馴染むか否かを考慮し、購入には至らなかった。私の元へ来て持て余されるより、もっと相応しい持ち主がいるはずだろう。

その後も催しが終わるまでぶらぶらした。古いものは皆一様に、金属は錆び、木や革には傷や染みがつき、紙は状態の良いものでも黄ばみを生じている。しかしこれらのものは幸運にも長い歳月を経てなおも破損には至らず、形状を維持し、存続している。素材の耐久性もあるだろうが、持ち主に大切に扱われてきたことには違いなく、物として良い歳の取り方をしている。琥珀の中で昆虫が姿を留めているようにーーー封じ込めた時間への複雑な感情が、古いものへの、好意に似た感覚をもたらしているのかもしれない。芸術における創作は常に新しさを求められるが、外野の要求は放っておいて、自身にとって非常に直感的な、傾倒せずにはいられない対象に身も心も浸して過ごす時間が必要である。一時間でも、一月でも、十年でも、必要であらば、歳月はいくらでもよいのだ。そうでなくては、心は乾き、死んでしまう。私にとって古いものに触れることは、山登りだとか、動植物との触れ合いだとか、人との会話だとか、街の散策だとかと同様に、心に泉をもたらすもののひとつなのだろう。